今ひきこもっている君へ

自己を全肯定する:

だれにも迷惑をかけていないのに苦しんだ君。だれにも迷惑をかけるつもりもない。だからあなたは群れから出ていった。そこにいたくないから出ていった。家の中に閉じこもって外にはでないようにしている。家族は少なくとも自分に危害を加えない。ご飯も食べさせてくれる。

嫌な思いをしなくてもいいから、今ここにいる。何も思いつかないから閉じこもっている。

あなたは、あなたがしていること、していないこと含めて、すべて肯定するべき。

家族はあなたに迷惑しているのではなく、思うように動いてくれないあなたに心乱されているだけ。

家族はあなたのためにではなく、自分のためだけに行動している。

だから、あなたはあなたのことだけ考えていればよい。

ドミノ式生活法:

必要だと思う項目をあげる。歯をみがく、顔を洗う、掃除をする、食事を作る、運動をするなど。

順番を決めて、そのとおり行動する。歯を磨く→顔を洗う→運動をする→掃除する→食事を作る。

この生活法のよいところは、次に何をするか考えなくてもよところ。

「考える」作業というのは思った以上にエネルギーが必要。それだけで疲れてしまう。それをなくそうという発想。

ドミノ式学習法:

毎日する知的活動を決める。それは勉強でなくてもよい。読書などでもよい。

必要だと思う項目をあげる。読書、英語、数学、理科、社会など。

順番を決めて、そのとおり行動する。ただし、ごく微量でもよい。2,3分で終了してもよい。

読書→英語の語学番組を見る→計算問題を5問解く→物理の解説を読むだけにする。

ドミノ式のよいところは、次にする作業を考える必要がなくなるところ。

「考える」ためには大変なエネルギーを要する。何をするか考えることにエネルギーを使うなら、知的活動自体にそのエネルギーを割り当てるべき。

実践主義で行く:

ドミノ式で生活、学習することが実践主義そのもの。

実践したことが全て。

生活に必要な環境を整える必要がある。住む、食べる、着る。

いかにして稼ぐかを第一に。生活に必要なのは、第一にお金。

学習は必ず生活に繋がっていなければならない。生活という出口に向かう学習の方向。

生活を安定させて、学習をさらに充実させる。

生活と学習を両輪に前へ進む。

うまくいかない時、歯を食いしばって耐え忍ぶ?ドミノ式に生活し、学習し、確実に積み上げてうまくいくように仕上げていく。

スケールを自分の物にする(必要なこと):

しんどいのは狭い範囲に押し込められていることから来る。

生物学的な要請を受け、生まれながらにしてそうなっている。

真実や実体を覆い隠す「生物学的な要請」

今どこにあたなは住んでいますか。

日本ですか。埼玉県ですか。

たぶんもっと小さな単位、市区町村単位のそのまた小さな地域に「今いる」ことを実感できる範囲では。

まわりにどんなものが見えますか。

いつも知った顔、建物、空間。

スケールでいうと、数メートルから、数百メートルの範囲。

あたなはほぼ「メートル」という単位で測られる世界に生きている。

それがしんどい大きな原因。

真実は極微の世界や、極大の世界にある。

「神は細部にやどる」という言葉がある。

指数関数的に成長する:

臨界点に達すると成長が爆発的に進む。

その時点で副産物がいろいろ手に入る。限界を設定しなくなる。同様なことが他にも波及する。

臨界点にいつ達するかを問題にすることに意味はない。生きている間にそこに達しさえすればいい。それまで越し方がどうだったかなど問題にならないレベルで高く飛翔できるのだから。いつまでにこれをやれ、かならずこれを達成しろ、などといった外からの干渉を一切受けることもない。縛られなくなる。自在に思考を巡らせることができ、自在にこの世界を認識できるようになり、生きたいように生きられるようになる。自由になる。

臨界点はいろいろな場所にある。特別これといったことではなく、こうしたい、ああしたいと思うことの先にある。毎日の習慣の中にある。簡単に手に入ることではないが、難しすぎることもないようなものの中にある。だから無理のない分量の作業を、毎日行えば必ず到達できるという理屈だ。指数関数的に成長するのだ。指数関数のグラフを書けば、その威力が目で見て理解できるだろう。

我慢ができず、今そこに到達しようとするとだめだ。今日だけ無理をしようとして無理が祟り、挫折し、やる気を失う。そもそもそれ自体を諦める。諦めたままの人が大勢いる中で君はどうするだろう。

関心の度合いを高める:

「へー。」「ふーん。そうなんだ。」「そうなの?」「え?どういうこと?」のように。

関心の度合いを最大レベルまで引き上げる。扉が開く。

身の回りにある重力や磁力、電気、光など。

生活する上で特に気にも止める必要のないそれらの「力」や「現象」こそが「外の世界」へつながる扉になっている。

生命活動を維持する上で、それらを疑問に思うこともなく我々は生まれてきて、受け入れる。

それらの力や現象の上に成り立つ、我々のためだけの世界に生きている。

その世界に満足し、楽しく暮らしている間はそれでよいが、どうにも息苦しく、そこから脱出したいと思うこともある。消えたいと思うことすらある。

その世界の中にしか存在できないなら、それは不可能と結論づけられるが、本当にそうだろうか。

外の世界にどうやってもいけないとしても、その世界の雰囲気を感じることはできるかもしれない。近づくことはできるかもしれない。

そうしたことを科学的に探求してきた人たちがいる。数千年も前からずっと。今も続いている。

幸いにそれらの遺産は、現代の我々には簡単に手に入る。学校の教科書にはその概要と、最小不可欠な技法をレクチャーしてくれている。ポン、と手渡されたその教科書の中に、大きな遺産が詰め込まれている。

関心をむけなければ、ただの退屈な文字と図表の羅列にすぎない。

道理や理屈を積み上げていくことでしか、真の理解には至らない。例えば微分の積み上げによってのみ巨視的世界の現象を説明できるのと同じ。自分を取り巻くあらゆる現象は、必ず理屈を学べば理解ができる。理解ができれば対処ができる。相手を白日の下に晒し、よく観察し、タイミングを見計らえば、思うよう扱うことができる。

実体を感知する方法:

生物学的な要請を受け続ける中、許される感覚や感知の能力の範囲内で、その外の世界がどうなっているかを知る。2次元の円の増減を観察し、3次元の球体を想像するなど。

機械費用:

何かをすれば、何かはできない。引きこもることでできないこともある一方、引きこもらないとできないこともある。

時間的な連続性を確認する(必要なこと):

生まれてから今まで。ゼロ歳から物心がつく幼児までの記憶の欠如は、他から補う。幼児を観察する。子育てをした人は、その当時を思い出す。

文明的な視点で数百年前から現在までを結ぶ。

生物的な視点で数億年単位で理解にまで落とし込む。

原初の瞬間から今この瞬間までをイメージする。

自己を生物学的な視点で客観視する(必要なこと):

色覚が生物学的にどのように備わっているか。電磁波のほんの一部の波長だけをなぜ切り取って知覚するように脳がなっているのか。

分子、細胞レベルの複雑性の極地に立っている。「存在している」「自分がいる」と思うことは錯覚で、「複雑性」という状態にある、だけでそれ以上でもそれ以下でもない。

より良く生きようとすると:

より良く生きようとするのは決して間違ったことではない。満足を得ようと行動するようにできているのだから。得ようとする対象によってはしんどくなることがある。満足を得られず、絶望することもあるだろう。

絶望すると行動が鈍る。行動が止まることもある。

行動しないと満足は得られない。

生活をすると脳は満足する。生命を維持するようプログラムされているから。

世界がどうなっているかを知れば脳は満足する。探求するようにできているから。

何に満足したいかを選べば、自分にできる行動をとることができる。

行動が止まったときは、「選択」を迫られたときだ。

お金について学ぶ:

経済について、社会の仕組みについて。

増やし、守る方法について。使う方法について。

調べ物をする:

何かを学んだり、調べたりするときに参考にするもの。参考書、雑誌、新聞、ネット記事、動画など。欲しい情報に的確にすばやくたどり着きたい。それが案外難しい。

よりベーシックな事柄については、読み手にわかり易く工夫したものが十分手に入るだろう。だがより専門的で、さらに日々発展を遂げている先端技術などについて教えてくれる媒体を探すのは苦労する。

読み手に不親切な物が多く、数も限られてくる。自分に適した指南書は時間をかけて探すべきであり、見つからない間も限られた情報の中で何かを解決したり可能な範囲で理解をしておくことは大変な困難を伴う物だが、初めから納得しておくことも大切だ。

複数のソース元を確保すると、足りないところを補い合って理解しやすくなることがある。少なくとも2つは確保したい。

わからないことはなるべく早めに調べてしまうことが大切。いつまでもわからないままにしておくと、その分野の内容が理解できるまでに多くの時間を費やすことになる。用語の意味などの小さいことははやめに、そして多く頭にいれること。自分にあった内容であればいくらでも入る。英単語や熟語などがその良い例。語学の習得やITの分野(プログラミングも、語学の側面あり)にたいへん役に立つ。

ブルーオーシャン:

社会とつながる、のは目的ではない。手段。何の手段か。

自分を社会へ売り出すこと。生身の自身。自身の中から他者にとって価値あるものを取り出して、それを売り込む。

対価として価値があると他者に思われればよい。取引が成立する。

他者へ向かって一方通行では、取引は成立しない。

レッドオーシャンに乗り出すのは簡単だが、そこでたくさんの果実を得るのは難しいかもしれない。

果実、例えばりんごを栽培し売るために農場へ乗り込んだとする。そこにはすでに農地を確保したライバルが多数いて、中には広大な農地を占有するものもいる。新参者に戦う余地があるかどうか。

まだだれも食べたことのない、新しい果実を発見するか、発明すればそれが、ブルーオーシャンになる。好きなだけ売って、利潤を増やすことができるだろう。

しかし、なにもないところから有形を生み出すのは、苦しみとともなう。例えば音楽家、漫画家、芸能に関わる者。この世にまだでていないものを生み出して、共感を得ることができればそれは生き残る。多くの人に受け入れられれば長く生き残り、多くの利潤も生む。苦しみの先にそれらを生み出した者は、対価を受け取る。富、名声。それ以上に生み出すこと自体に、えもいわれぬ喜びに包まれることだろう。

それは芸術家だけに許されたことではない。叶えたいことがあり、それに取り組んでいる。どうすればそれを実現できるか。ブルーオーシャンに漕ぎ出そうとするものにとっては、はじめはなにもない真っ白な状態。すでにだれかが通ったあとがあって、それをたどっていくだけなら手本がある。それがない。だれも教えてくれないし、知っている者もいない。それを生み出すのは自分しかいない。

波状攻撃で攻略する:

何かをマスターするため取り組んでいることがある。指南書を読むだけで簡単に手に入る内容もあれば、そうはいかない大きな壁にぶち当たることもある。そこで気持ちが折れて一気にやる気を無くす。

あなたの部隊は進軍する。次々と敵の城を攻略していく。難しい敵に出会う。どんな敵なのか情報を集められるだけあつめ、後続の第二陣の部隊に渡す。あなたの部隊はまた別の城を目指し進軍する。

第二陣はあなたの部隊が戦ってくれたおかけでさっきの城の攻め方が少しわかっている。戦いのあとに残った城壁の崩れた箇所からじわじわと侵入していくだろう。

第二陣でも落ちない城であれば、第三陣が、第四陣が。第五から第七あたりできっと攻略しているはず。

あなたの陣はその間にいくつもの城を落とし、勢力を拡大していることだろう。後続の部隊も含め、すべてはあなたの部隊なのだから。

波:

大きな波がやってくれば、やりすごすか、乗るか。乗れない波であれば、のみこなれないように、やりすごすしかない。逆らってはならない。抵抗してはいけない。

上昇する波と下降する波がある。上昇する波に乗れるときには、大いに乗りこなせばいい。そこで儲けるだけ儲けておく。存分に。しかし下降する波からは迷わず降りるべきである。損失を最小限にして次の波が来るのを待つ。

この世界は波でできているといっても過言ではない。自分ではどうしてもコントロールできない大きな波がやってくることも当然ある。それを自分の都合に合わせて消し去ろうとしたり、動かそうとしても無駄である。そうしたときには、今利順を生まないことであっても、先々役に立つかもしれないことがあるなら、それに取り組んでいるべきである。必ず次に良い波がくるとわかっていれば、そうするだろう。波は消えずに、ずっとそこにある。それが今、自分の都合にあっているかそうではないかであり、次にどうなるか予測が難しいだけ。自分にあった波は、必ず来ると信じて、それに上手く乗れるだけのスキルを身につけるべく、今準備しておくべきである。

予習と復習:

予習はいらない。予習をするということは、予め(あらかじめ)だれかが決めた日時までにそれをしておくということ。自分が決めたときに自分がするだけなので、あらかじめも何もない。

復習は、必要ならする。1回でできたことはしなくていい。1回目にできなかったから、当然それを2回めに仕留めようとする。できなければなん往復かを繰り返し、できるようになるまでする。

群れとネットワーク:

群れからはぐれることに、恐怖を覚える。ポツンと一人にされるとパニックになる。どうして人は群れるのか。それは生きていく上で必要だからだ。一人の人間の力ではできないことが多すぎる。食べていくことができない。

だが、まだ家族がいるならそれは立派な一つの「群れ」なのだからその中にいればいい。いられる間はずっといればいい。生きていくために。

もとの群れに戻る必要はない。群れと言っても無数にある。すでに形成されてる群れの中に入るのが嫌なら、自分を頂点とする群れを作ってしまえばいい。自分の群れだから自分の考えたとおりに行動できる。誰にも指図されない。気を使う必要もない。

自分の群れを作るために、今何ができるだろうと、「家族の一員」である間に考え、準備しておくべきである。

ここで「群れ」という言葉を「ネットワーク」に置き換えると見方がまた変わる。現実の人とのつながりとは別に、インターネットを通じて人とつながる手段も大きな力となる。世界人口76億人のうち50億人近くがインターネットにつながっている。日本においてもインターネットの普及率は、30年前(1996年)3%、20年前64%、10年前78%、現在85%と爆発的(指数関数的)に推移している。

ネットワークにつながるとどのようなことが起こるだろう。今までバラバラに存在していた貴重な知識やアイデアにすぐ触れられることが大きい。専門外の者にとっては入手することはもちろん、存在することすら知らなかった考え方、道具、方法を簡単に手に入れることができる。それをどう使うかはその人によるが、それが世界中に張り巡らされた網の目の上を時々刻々と更新を続け、洗練され続けている。それ自体が有機的に機能する脳のように。爆発的にコネクションの数を増やし続けるニューロンを想像してみる。

ベースを作る:

いつでも立ち返ることができるベース(基地)をつくる。そこからいつでも出陣できるように。敵の城を攻略できても、できなくても、そこに立ち返る。整えてまた出陣する。

信頼できる教材や参考書がベースになる。わずかな費用を出せば簡単に手に入るだろう。なかなかそこにたどり着かない場合もあるかもしれない。インターネット上に誰かが残していった記事や動画だったりする場合もある。手に入れたらそれをベースにする。堅牢な守り。武器弾薬をいつも万全な状態で君に提供してくれる。ベース選びは納得がいくまで時間がかかってもいい。これと決めたら徹底して利用する。

今日は昨日攻略できなかったあの城を目指し出陣しよう。さんざん戦ったら戻るべき場所に戻る。いつものベースに必ず帰ってくる。

ベースに揃っている知恵は、いずれ君の頭に完全にコピーされる。君流にアレンジしてバージョンアップされて。そうすればまた違う場所に移動し、そこで何かを獲得すべく戦うことになろう。そこではまた新しいベースを構えて日々格闘することになるだろう。すべては君が生きたいように生きるために必要なこと。知りたいことを知り、生きたいように生きる。

迷ったら:

今の自分に必要なことを身に着ける。そのための学習をする。それ以外のことに目が行く場合、それが必要になったときに身につければよいのだから、今は無視する。

今の自分に必要な「習慣」を身に着ける。毎日それを実践する。

学校で教えてくれるようなことなら、だいたい一人で学べる。テーマも自由に選べる。他人と歩調を合わせる必要もない。答えが事前に用意されている内容を学ぶ上では、どこかの組織に属している必要性は特にはない。わからないことはインターネットにつながっていれば、親切な人が必ず教えてくれる。

一番大事なこと。「自分ならでは」のことをなるべく探し、使えるものにすること。独創的であればあるほどいい。価値が高まる。あらかじめ答えが用意されていないことだから、なかなか手にすることは難しいかもしれない。「せんみつ」という言葉がある。「千回探せば、3回ほどの発見がある」という。難しいことだが、取り組んでいれば必ず見つかるともとれる言葉だ。毎日取り組み、3年ほどで千日を超える。

自分にしかできないことが見つかるはず。それを上手く使えば、道が開かれる。

宝:

これ面白い!と思うことが見つかったら、それを大事にする。生涯かけて取り組んでも追求しきれないかもしれない。そんな内容のことであれば、なおよい。一生飽きることなく過ごせるということだから。そんなものにもし出会うことができたら、その日から君は何の心配もなく暮らしていける。生きている幸せはそこにこそある。内容は人それぞれ違うだろう。子供を授かった人は、その子と生涯関わっていくことになる。親子の関係は死ぬまで続く。いずれ親元を離れていっても、その関係性はなくなることはない。答えのない自問自答を繰り返し、苦しむこともあるだろう。それと同じくらいの喜びを、なんの代わり映えもしないように思える日常のなかにそこかしこ感じながら生活するだろう。

創造的な活動をする道に進んだ君なら、無から有を生む苦しみの中で日々格闘しつつ、ときおり世間からの評価を受け取る瞬間に、深い喜びを噛みしめるだろう。どこまで行っても終わりがなく、上へ上へと登れば登るほど、先はもっと遠くにあって、絶望的になりながらも、一生をかけて追求できることに出会った幸福を、ぜったいに忘れてはいけない。